teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


誤記訂正3点 これで本当に終りにします。

 投稿者:deusprovidet  投稿日:2013年 6月22日(土)11時06分10秒
返信・引用
  (先ほどの送信内容の誤記訂正3点)
1.「ホモウーシオウス」⇒「ホモウーシオス」
2.「本質による有(ens per essentiam) のあとに 」を付ける。
3.「分有による有(ens per participationem) のあとに 」を付ける。

急いで書いたので誤記も生じます。あとはちょっとした誤字などがあっても常識的にみてわかることでしょう。内容の主旨には全く影響ありません。 以上
 
 

追加補足 これが最後の最後です。

 投稿者:deusprovidet  投稿日:2013年 6月22日(土)10時48分41秒
返信・引用
  これまでの書き込みがここに残るなら、閲覧する人が誤解なきよう、また警察沙汰にされた場合の証拠としても、今までの経緯とコメントについての補足を加えさせて頂きます。これも私の権利として削除は拒否します。
まず、私の書き込みの目的は2012年7月29日に始まっていますが、この時点では確かに阿部牧師が制作した「三位一体のカテキズム」(以下、「カテキズム」と表記)の内容に対する質問というよりも、その参考文献の一つであるウィリアム・ウッドの著書『[エホバの証人]の反三位一体論に答える』(以下、「ウッド本」と表記)の内容に対する質問になっています。したがって、阿部牧師にその著書の内容について質問する、見解を訊くというのはおかど違いだとの反論は当然、予期していました。しかし、「カテキズム」においてこのウッド本は単に参考文献というにとどまらず、かなり引用されており、しかもそのウッド本の推薦者である森川昌好牧師は「カテキズム」の謝辞に出てくる人物であるという関係があります。そこで阿部牧師にウッド本の内容についての見解を訊くことは必ずしもおかど違いとは言えないでしょう。それは「カテキズム」に対する(質問ではなく)批判になります。それが2013年6月21日のメールの内容です。その前に不毛な議論に入りかけた自分を反省して2012年8月4日にいったんこちらも送信は止めました。しかしまた、ネット上で「カテキズム」が目に入ることがあり、批判の思いが再燃しました。こんな偏ったドグマがネット上に公開されていてはいけないという強い思いが私をつき動かしたのです。私はJW(エホバの証人=ものみの塔)のシンパでも何でもないし、終末論には危険なものを感じ、カルト宗教であることを否定はしませんが、そのキリスト論については正統的キリスト教のそれより聖書に即していると思っています。しかしどちらにせよ解釈の問題なので相対的で、互に自己絶対化し合っているのでどっちもどっちとは思います。
さて、牧師以外でこれを御覧になる人のために書いておきますが、私は実際にウッドにはメールと電話で連絡をとりましたが、阿部牧師の対応と全くと言ってよいほど同じでした。つまり私のコメントをみれば自分と考え方が違うとわかるので対話しても意味なし、時間の無駄、はい、さいなら・・・ということです。何ら、真摯な応答はありませんでした。そして阿部先生に対しても実名でメールをお送りしました。但し連絡先まで書く必要はないと思います。実名を信じないなら、再度、連絡先を書いて送信する準備はあります。しかし阿部牧師がこれに目を通さなければ、その要求もないでしょう。どっちにしても私に応答する気はないのですから、本人が実名と連絡先を書けといってそのとおりにしたからといって、話がかみ合わんから打ち切りだと一方的に言うなら意味ないです。言われるとおりにすればきちんと応じるという保障なしに個人情報は簡単には出せません。これも今の時代は常識です。
本当に、阿部さんやウッドのような対応が牧師と名乗る人々のすることだろうかと呆れるのです。もちろん内容が単なる誹謗中傷なら牧師とて取り合う必要はなく、むしろ警察沙汰にでもすればよいでしょう(実際はそこまでやるだけの強迫まがいの犯罪性の高いメールなんて牧師などに対してする人がいるとは思えませんがね)。しかしいかに自分の考え方とは反対だし、批判している内容であるとしても、そして忙しくて余裕はないとしても、それでも相手が真剣に向かってくるなら少しでも応じてあげようとする度量あってこそ牧会もつとまるのではないのでしょうか?ましてや自分をおとしいれるために近づいてきた者でさえ無視せず、真摯に対応したイエスの度量をこそ見習うべきではないでしょうか?阿部牧師にとっても有意性のあることを私は書いているつもりです。
さて、そのウッド本の内容に関する問いですが、そもそも彼は神学者ではなく一介の伝道者であり、そんな人物が(この点では阿部牧師も同様です)専門的知識が必要な三位一体論に関する本を出すということに無理があるのです。古代教理史の研究者でなければわからないような内容です。ウッドも阿部さんも経歴からみて、それだけの勉強をちゃんとされたとは見受けられません。無論、牧師は学歴がすべてではありません。いくら神学部の大学院で修士や博士の学位を取ってもセクハラで牧師失格になっている人もいます。大切なことは何よりも人間性であり、相手が真剣に向かっているなら、こういう批判に対しても無視しない(愛と簡単に言いますが)包容力であり指導力です。それはタラントですね。しかしそれにしても三位一体論に関する本を出すなら、もう少し古代教会の時代の歴史や原語を学ぶ必要があります。それがそうでないことが明らかであるのは中味を一読すれば明らかです。引用がやたら多く、参考文献は邦訳書ばかりでしかも「福音派」の保守的立場の著者によるものが目立つからです。これでは、本来の「三位一体」はわかりません。ウッド本も同様です。率直に言えば、タテマエはJW被害を防ぐためといった公益的大義を掲げながら、ホンネでは自分のために書いたという印象を受けます。さて、あえて簡単に言えば、古代教会の三位一体(東方教会では「至聖三者」)にはギリシャ定式とラテン定式との区別があります。前者は「3のhypostasisと1のousia」であり後者は「3のpersonaと1のessentia」です。それで、プロテスタントは西方教会の流れにあるので後者が主流であり、「persona」は位格で人格ともいわれ、父,子,聖霊の各位格に固有性があるといわれます。そしてそれゆえに各位格について「存在」という言葉が用いられることもあります。しかしギリシャ定式で「実体・本質」と訳されるousia(ウーシア)にも存在の意味があります。ちなみに正統主義的立場でもそのことを認めています。<ウーシオスというのは、ウーシアという名詞の形容詞形。ウーシアは、「存在」とか「本質」と訳される言葉です。つまり、私たちの主イエス・キリストは、父である神と同じ本質をもつ方、本質を一つにする方である、と告白しているのです。>(雪の下通信ONLINE「教理の窓 ニカイア信条を学ぶ その八」)・・・これでいけば「ホモウーシオス」は「同一本質」とか「同一実体」だけではなく「同一存在」とも訳されて然りなのです。三位一体論でousiaは、普通は「本質」とか「実体」と訳され、「存在」とは訳されません。それは、substantia(実体)とessentia(本質)との区別がなかったアリストテレス哲学の影響を受けたラテン定式で訳され、それが日本語に訳されると「存在」の意味が消えたからです。しかしギリシャ定式ではhypostasisが「自存者」、ousiaを「実体」もしくは「存在」とみなすことはできます。
つまり御父と御子との関係が、「ホモウーシオウス」であるということは、御父と御子とが同じ存在であるとも言えます。そう言っても間違いとは言えません。だからJWから、三位一体論者は御父と御子を同じ存在だというが聖書では別個の存在として書かれているではないかと批判されても、それは仕方のないことなのです。これに対する説明としては、当時のギリシャ哲学の素養も必要です。当時の用語には多義性があるからです。でもウッドにはそれはできなかったのです。だから混乱したまでのことです。トマス・アクィナスの神学では「神」においては「本質は存在そのもの」であり「本質による有(ens per essentiam)ですが、被造物は全て神から存在せしめられるものであり「分有による有(ens per participationem)です。しかしそこに共通の「有(ens)があり、これが「存在の類比」となります。ここで重要なことは、神の「存在」は「位格」ごとの「人格的固有性」について言われているわけではないということです。だから聖書の釈義もウェストミンスター信仰基準のような聖句のこじつけ参照のドグマなどにとらわれる必要は全くないし、JWからの批判にも誤解では済まされない面があるのです。
「神の存在証明」などは信者にとっては無用ですが、「神の存在」はあくまでも「唯一」として明確にされなければなりません。そのような聖書解釈であってこそキリスト教です。しかし三位一体論は必ずしもそうはなっていない。少なくとも一般の信者にとっては神の存在が「3」なのか「1」なのか明確ではない。それは三位一体を解説する人がよくわかっていないからです。曖昧な説明はかえって信者を惑わすのです。だから私は「三位一体のカテキズム」の作者にも問うたのです。神の「存在」は「1」ですか、それとも「3」ですか?と。後者だというのがラテン式の一般的な翻訳であり解説です。「人格的固有性」があるからです。しかしそれでは「三神論」と誤解されるのも仕方ないです。結局、「神秘」とか「秘義」としてフタを閉めるやり方がずっと繰り返されています。たしかに聖書の啓示には人知を超える「神秘」があり、その前で人は謙虚に「無知の知」をもって受け入れるべき真実があります。しかしその真実が教会組織が作った教義である必要は全くありません。聖書が示す福音の真理は決して客観化できません。各人の心の中での神との交わりにすべてがかかっています。教会はあくまでも媒体です。イエスが媒介者であるように、その体と象徴される教会もまた媒体なのです。それ自体を「聖」なるものとして信仰の対象としている使徒信条の付加的文言は私は受け入れていません。でも使徒信条そのものは他の信条とは区別して尊重しています。
なお、三位一体に関して惑わされないための中立的情報として、私の批判に応えた<「三位一体」の相対化のために」>他3文献の参照をおすすめします。いちばん下を御覧下さい。
とにかく阿部氏の「カテキズム」のような偏った情報では、信者は本来のキリスト教の「三位一体」の意味を、わかったようでいて結局は誤解することになる危険があると憂います。特に求道者が惑わされるおそれがあります。「三位一体」(trinitas)は決して聖書から必然的、直接的に発展した教理などではないのです。聖書に明示された「三・一」(trias)からかなりの論理的飛躍と哲学的思弁がなされて生まれたものです。そこには当然、無理があります。それを神秘のヴェールで覆って、いかにも意味深長であるかのように装ってきただけです。私の批判の主旨は、その神秘のヴェールの前で思考停止することが敬虔であるかのように思い込む原理主義の立場が、「カルト」救出活動などに手を出す背景にあるものは、カルトと共通するドグマの刷り込みであることです。ウッドのように、自分が被害者を救出していると言いながら、自分と信仰的立場を異にする者に対しては悪魔に関連付けて傷つけていることに気付かないのです。つまり自分と同じ考え方をする者には見えるものが、立場を異にする者には見えない、そこに正統主義的あるいは原理主義的な独善性があります。この点を指摘したいのです。
「洗脳」とか「マインド・コントロール」などキリスト教にはなくてカルトにこそあるものと思いがちです。しかし似たようなことがキリスト教、特に原理主義的立場にはあるのです。その程度の差こそあれ、発想は同じです。同じ理解を共有する者だけを仲間とする考え方、そこに多様性を認めず統一性の方に傾く心性、それは聖書を原理化し、信条を基準化し、カテキズムで刷り込むのです。洗脳とまでは言いませんが、個々人の素朴な疑問が抑圧されてゆく、これは危険です。だから聖書解釈はリベラルであって然り、精神的健全性を考慮すれば、ドグマティズムはよくないです。
私は佐藤優氏はあまり好きではありませんが、下記の見解にはほぼ賛成します。
<三一は、聖書に明確な起源を持つものではありません。ただし、神学的操作を加えることによって聖書から三一を導き出すことは可能です。裏返して言うならば、別の神学的操作を加えれば、聖書から三一とは異なる結論を導き出すこともできます。このことを冷静に受け止めれば、三一を承認しない者でも、イエス・キリストが救い主であると信じる者はキリスト教徒なのです。三一を正統と異端の「踏み絵」にする発想は間違っています。>
http://webheibon.jp/blog/satomasaru/2013/01/post-42.html



「三位一体」の相対化のために
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/detail.php?note_id=186249&print_flag=1
「三位一体」は比喩である。
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/detail.php?note_id=186248&print_flag=1
神学的補足説明:「三位一体」の2つの違いについて
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/detail.php?note_id=186257&print_flag=1

http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n186249

 

質問ではなくカテキズム批判です。

 投稿者:deusprovidet  投稿日:2013年 6月21日(金)19時11分57秒
返信・引用
  このコメントを最後にしますので削除しないで下さい。マナー違反ではありません。
インターネット上に教会のサイトを設け、「三位一体のカテキズム」なるものをも発表しているわけですから、その記載内容についての批判がくるのは想定済みのはずで、それがダメだというなら、サイトに「カテキズムに関する批判はいっさい受け付けておりません」とでも明記しておくべきで、そういった文言がないなら、無視してろくに応答もしていないのに一方的に打ち切りというのはどんなもんでしょうか?
それに教会の掲示板だというわりには使用者がいないようです。私が使用して何か迷惑がかかっているでしょうか?
もっとも私議論をするつもりはありません。時間の無駄です。ただ忠告しておきますが、聖書解釈は相対性を免れ得ません。結局、自説に引き寄せて都合よく解釈するだけです。それを言いあっても水かけ論で平行線をたどることは当然です。聖書解釈を土俵にした三位一体をめぐる論争は不毛であることは私も承知済みです。だから私は同じ土俵に乗るのではなく、その聖書解釈という土俵の限界を指摘し、両面あるのに片面だけを強調してドグマに結びつけるやり方が閲覧者を惑わすことにもなると思うので批判する次第です。そして教会が正統教義として絶対化している「三位一体の神」だの「二性一人格のキリスト」も一つの聖書解釈にすぎず相対的なものであると指摘しています。
それと念のために付け加えておきますが、前回の送信内容で70人訳聖書の創世記48:16の原文引用にクエッションマークがいくつかありますが、これは文字化けです。また文字化けするといけないので、カタカナ書きしておきます。「オノマ トーン パテローン ムー アブラム カイ イサク」 ・・・ここの「オノマ」は単数ですが、アブラハムとイサクは別存在なので、マタイ28:19だけ例外とはならないということ。
それと創世記1:26の「我ら」という複数や、「神」の複数形を「三位一体」と結びつけるのも片面解釈にすぎません。「我ら」という複数は「尊厳の複数」などの修辞表現としての複数ともとれるし、その複数は必ずしも「位格」の複数を意味するとは言えず、むしろ「神」の複数として多神の根拠になります。そうなれば「三位」の典拠とはなりません。「神」の複数形(エロヒーム)についても現地の多神教世界から入った言葉であって「三位一体」とは関係ないとみなすこともできます。むしろ創世記1:26と27の「像(ツェレム)」、27の「似姿(デムート)」が単数形であることを無視することは不当となります。自分にとって都合のよい「複数形」の言葉だけをとって「三位」に結びつけますが、それならその複数形が反映されているはずの「イマゴ・デイ」も複数形のはずですが、そうではないのです。
ということで「カテキズム」の解釈は牽強付会で片面であり一方的であり、あくまでも相対的です。ある意味、「カテキズム」も刷り込み作用があるのでカルトの洗脳用教材に類似します。
いちいち聖句を都合よく並べて「三位一体のカテキズム」などと称して自問自答して「三位一体」を弁証しようとしても無駄だということです。同じやり方で「反三位一体のカテキズム」が作れるし、また、その反対も作れます。聖書解釈を土俵にしてトリニタリアンと非トリニタリアンとがやりあっても埒はあかず不毛なだけなのです。だったら「カテキズム」など作らず、とにかく「正統-異端」の絶対基準などやめるべきです。カルトは教義ではなく、あくまでも犯罪行為そのものを糺すべきです。教義と関連するからといって同じ宗教者がそこをたたくことはカルト的発想と同様の独善的態度にもつながります。 
 

同じ方ですね

 投稿者:牧師の阿部です  投稿日:2013年 6月21日(金)13時42分52秒
返信・引用
  以前、対応を打ち切らせていただいた方ですね。
すでに持論は書きました。
質問がある場合は、あなたの教会の牧師におたずねください。
 

続き

 投稿者:deusprovidet  投稿日:2013年 6月21日(金)12時47分38秒
返信・引用
  JWとは関係なしのプロテスタント教会在籍のキリスト者です。牧師に言いたいことがあって書き込ませてもらいます。自分に都合悪いことは無視したり、教会の掲示板だからどうのこうのと言って逃げるのではなく、牧師なら相手が真剣に訴える以上は、議論には応じなくてよいが、すくなくとも自分とは話が噛み合わないからと言って門を閉ざすのではなく(そういう態度ならウッドと同じことです)、とにかく真摯に耳を傾けてください。
「三位一体のカテキズム」の謝辞の中に出てくる「母教会の豊橋ホサナキリスト教会牧師森川昌芳」という人物は、ウッドの『[エホバの証人]の三位一体論に答える』で「推薦のことば」を書いており、その最後で「異端とは何か、それは主イエスを神としないことです。したがって異端の背後にいるのはサタンでしかないことも、この書はよく教えてくれます。私は、一人でも多くの方がこの書を読んで、同胞をサタンの手からキリストに導く働き手となっていただきたいと切に願ってやまない者です。」と書いています。この独善さには嘔吐をもよおします。自分たち以外の信仰的立場を「異端」とみなし、それだけではなくその背後にサタンがいるというのですから。何をもってそんなことを言い切れるのでしょうか?こういう発想こそファンダメンタリズムであり、カルトにも通じる心性だと私は感じます。恐ろしいと思います。JWに対して「ものみの塔の敵をすべてサタン化してしまう」などと批判する、その返す刀で自らを斬ってしかりです。自分達こそ「イエスを神とする」信仰の立場以外のキリスト者は皆、サタン化するのですから。ヨハネ福音書はイエスを神の子キリストと信じるためと書いていますが、イエスを神と信じるためとは書いていません。そして現代に於いて「神の子キリスト」の意味は、聖書学の見識により解釈の多様性があるのです。必ずしも受肉や奇跡や復活や昇天を史実とみなす必要もありません。「非神話化」を通して与えられる「神の子キリスト」の意味というものがあるのです。
そもそも「三位一体のカテキズム」の問題は、参考文献の傾向があまりにも保守的立場に偏向していることです。一般社会でも通用し得る学術的なものは皆無に等しく、初期の教会からイエスが「神」といわれていたことの論拠として「クレメンスの第二の手紙」の一部を引用し、その訳書として荒井献氏による『使徒教父文書』を挙げていますが、このような形で使われるというのは荒井先生もさぞ不本意なことだろうと思います。どうせなら荒井先生の『イエスとその時代』や『イエス・キリスト』も読んで学ぶべきで、そうすればいくらクレメンスの手紙に書かれてあるとは言え、当時のキリスト教が全体としてイエスを神と同一視していたと言えないことは明らかになるでしょう。原始キリスト教ではイエスを天使的中間的存在とみなしていた可能性も高いのです。自分の考えに都合のよいところだけをつまみぐいするような参考の仕方は「論文」とは言えません。ギリシャ語文法にしても、どっちともとれるうちの一方の方だけを強調したり、ほとんどの専門知識は他者の説の受け売りで、自分自身で研究してこういう持論を得たというオリジナリティーというものが希薄です。たとえば、よく出されるマタイ28:19の単数形の「名(オノマ)」にしても、70人訳創世記48:16 ?νομα τ?ν πατ?ρων μου Αβρααμ κα? Ισαακ 「我が父祖たちアブラハムとイサクの名(単数)」とあるように、本質・実体が同一ではない者の関係でも使われているいます。この場合、アブラハムとイサクの両者を指す「名」が単数です。この用例から言えるのは、複数の人物を指して単数形の「名」という語を用いるのは、70訳が読まれていた当時のギリシャ語の用法として特別なことではなかったということです。福音書の旧約聖書引用は70人訳によっています。マタイ28・19でも同じことです・・・という反論が成り立ちます。そもそもこの句は後代の付加であることは常識です。その他、ギリシャ語の意味の取り方も恣意的であり、どっちとも取れるのにこっちの方が正しいみたないやり方でドグマに結び付けています。こういうやり方が「カテキズム」の特徴なのでしょうか?たしかにウェストミンスター信仰基準などは聖句の引用にこじつけの観があり問題視されて、改革派の内部でさえ改正しているくらいです。そもそも聖書から体系的教義を導き出そうとすること自体に無理があります。聖書はそのように作られたものではないからです。多様な解釈を許容する書物です。テクストは信者各自の置かれている生活状況(コンテクスト)に於いて釈義されることが許されて然りであり、神観に対してもこうでなければいけないなどと教会組織で決める必要はありません。解釈の多様性の余地を前提としての使徒信条の採用のみで信仰共同体の一致は成り立つはずです。ニカイア信条だのカルケドン信条だのは訳語の問題もあり、現代ではかえって誤解をもたらします。たとえば、問40、41については、カルケドン信条で言われている「ペルソナ」と「ナトゥア」の意味が誤解されています。「ペルソナ」が「人格」といわれますがこれは「存在のあり方」のことで、現代意味の主体的意味の「人格」は「性」と訳される「ナトゥア」の方なので、「二性一人格」という問題のある訳を前提としています。イエスという人物が人としての性質と神としての性質を兼ね備えていて、人としての性質では「父」と別存在で時空間に制約されたが、神としての性質においては「父」と同一の本質・実体で時空間を超えていた・・・みたいな非現実的なドグマこそ、「性質」と「人格」の「混同」なのです。イエスが神と人の二つの性質を持って交流させているとかいうことではなく、また、神と人の二重人格ということでもなく、これは非神話化されてイエスにおいてこそ人は、人格としての神に出会うとも解されます。もちろんこれも解釈である以上、相対的であり、解釈は各人の自由ですが、とにかく「カテキズム」は偏っており、AともBともとれるのに、さもAの方が正しくBの方が間違っているかのような絶対化的書き方をしているということを指摘しました。しかもこのようなものが「論文」などと称して、web上に堂々と公開されいるということに驚かされます。
 

承知しました。

 投稿者:deusprovidet  投稿日:2012年 8月 4日(土)23時01分21秒
返信・引用
  承知しました。失礼の段、どうぞお許し下さい。主にありて。  

私の対応は打ちきりとします

 投稿者:アベです  投稿日:2012年 8月 4日(土)20時54分57秒
返信・引用
  deusprovidet 様の持論はわかりました。そして私の意志はすでに書かせていただきました。せっかく長文をいただいたのですが、入口からかみ合わないようですので、これで私の対応を打ち切りとさせていただきます。
尚、教会の掲示板ですので、不特定多数の方と神学的なことを論じることは、いたしません。これは今後も変わることはありません。
 

これは悪戯メールではありません。

 投稿者:deusprovidet  投稿日:2012年 8月 4日(土)06時40分47秒
返信・引用
  「ウッド先生のことはウッド先生に」ですか・・・。失礼ですがいわゆるKYとの印象を受けました。そうとられてもしかたのない御返事ですので・・・。では言い方を少し変えてみましょう。率直に言って、私の質問は御サイトの「三位一体のカテキズム」にあります。あなたがそのようなものを公開しているから問われたのです。その中でも特に、参考文献にあげているW・ウッド師の著書について問われているのです。これは第一段階です。その次の段階であなたがお書きになっている本文にも入るつもりでした。第一段階では、おっしゃるとおりウッド師自身にも問うべきことではあります。しかしそれはそれ、別のことです。著者本人に問うべきことと、それを参考文献に掲げている者に問うべきこととは区別されます。ウッド自身に問われることは同時に別の意味においてあなた自身も問われることなのです。あなたはただウッド師の著書名を記載しているだけのおつもりかも知れませんが客観的にはあなたも無関係ではないのです。ウッド師本人に、これは聖書的に正しい表現ですか?と問うても返ってくる答はわかりきっていますよね。だから関係ある他の人、特にウッド師の当該文献を参照し、しかもそれを自サイトに出して結果的には推奨する形をとっている者にも問うことになるのです。単純にYesかNoで答えるだけでもよいのです。私が長々と書き連ねたので、あなたは私から議論を吹っかけられたかのような印象を持たれたようですが、よく読んで下さい。これは、私の質問の主旨を敷衍したものです。何を問うているのかをより具体的に、質問の意図も察せられるように述懐したものです。自分が答えるには都合悪いから、それは本人に訊け、というやり口はまさに世俗と同じ。およそ宗教者のやるようなことではありません。掲載したあなた自身にも関係あることです。たとえ法的な義務や責任はなくても宗教者たる者、主体的に受けとめ、答えられる範囲内ででも答えてゆこうとする姿勢があって然りです。このカテキズムには誤字も含めて、<このページはものみの塔の教えから開放されたい方のため、また「三位一体」を知りたいと願うすべてのクリスチャンのために作成しました。>と宣言されています。客観的にはまさに「開放」的姿勢を示しているととられて当然なのです。インターネットで公開するものは本来、匿名性の承認を前提とするものです。公開する側が名乗るのは自由ですが、公開したものに対する質問者に必ずしも実名を要請するものではありません。実際、多くの管理人は匿名で応答していますよ。インターネットで公開することについての心得が出来ているからです。実名公表を条件になさるなら、その旨、「当サイトに関する御質問は実名でお願いします」など記載して然りでしょう。ましてやあなたは牧師さんではないですか?そんな度量の狭いことでどうしますか!?私のメールが、あなたや所属団体を誹謗中傷する犯罪性の高い目的を持つ悪質な内容ではないことは明らかです。キリスト教の教理について真摯に問うているのです。少なくとも実名を出さなければ応じないと言われるほどの問題ではないはずです。もしも私が「ものみの塔から解放されたい」者の一人だとしたら、あなたは回心の芽を自らつむいでしまうことにもなりかねません。迷える小羊はあなたが思っているほどわかりやすい反応の仕方をするとは限りません。質問という形を通して、あるいは批判という形を通して福音の真理を求めてくることもあり得るのです。だから牧師たる者、現象にとらわれず、もっと寛容な態度で応じる必要があります。それが人間を獲る網を大きく拡げて待つということです。尊敬される伝道者は皆、そのような鷹揚な態度をとっています。匿名では応じないと門前払いするようなことは言いません。世の中には素性を知られたくない、名乗りたくない人間もいるのです。そういう人々に対してインターネットを活用した伝道方法は有効なのです。あなたは伝道するのにいちいち「何のため」と目先の目的を考えてなさるのですか?伝道の働きは、ほんのささいなやりとり、きっかけが福音を伝える機会になり得るといった神の大いなる働きに信頼してこそなされるものだと思っていました。この応答もそうです。何のためかはやってみれば自ずとわかるでしょう。問題としているウッド師の、「父と子と聖霊は、同一の存在ではありません。同一ではなく、同質です。三人の人格ではあるけれども、一体をなしておられるのです。」(p39)とか、「三位一体を信じる者は、キリストが父なる神と同一の存在であるとは主張していません。父が本質において神であるのと全く同じ意味で、キリストも本質において神である、と言っているのです。」(p127)という、その「同一の存在ではない」という言い方は適切と思われるか否か、この点だけ答えて下さい。参考文献の中の文言です。参考文献にはあげたが、この表現自体には問題があるという判断もあってよいわけで、率直に答えて下さい。あるいはこれが誹謗中傷目的の悪質メールだとお思いならどうぞ無視するなり、警察に通報するなりなさって下さい。  

ウッド先生のことはウッド先生に

 投稿者:牧師のアベです  投稿日:2012年 8月 1日(水)23時07分33秒
返信・引用
   牧師のアベです。deusprovidet 様。投稿ありがとうございます。キャンプや通常の奉仕などで忙しくしておりましたので、お返事が遅くなりすみませんでした。
 せっかく書き込んでいただきましたが、匿名であり、またこういう議論を何のためになさりたいのか不明ですので、お返事いたしかねます。
 何より、ウッド先生の著書の内容に関することは、ウッド先生に直接お尋ねになるのがよろしいのではないでしょうか。もしどうしても、私とやりとりをなさりたい場合は、本名や住所や連絡を取れる方法を書いて、メールにてお問い合わせください。
 

前の質問の補足です。

 投稿者:deusprovidet  投稿日:2012年 8月 1日(水)08時49分15秒
返信・引用
  御サイトの「三位一体のカテキズム」では問6だけではなく問4でもウィリアム・ウッド師の著書『エホバの証人の反三位一体論に答える』(原題は、エホバの証人が[ ]の中に入れてある)を参考資料として挙げておられますね。その本の中でウッド師は、「父と子と聖霊は、同一の存在ではありません。同一ではなく、同質です。三人の人格ではあるけれども、一体をなしておられるのです。」(p39)とか、「三位一体を信じる者は、キリストが父なる神と同一の存在であるとは主張していません。父が本質において神であるのと全く同じ意味で、キリストも本質において神である、と言っているのです。」(p127)などと述べてあるわけです。「同一の存在」であることと「同一の本質」を持つこととは別のことですか?本質が同じであれば存在・実体も同じというのが、少なくとも古代教会時代の一般的考え方ではなかったのでしょうか?これについて、「三位一体のカテキズム」を掲載しておられる御教会また阿部牧師としましては、この問いにお答え頂いてもよいのではないでしょうか?そもそも「三人の人格」といわれていますが、ギリシャ教父が「ヒュポスタシス」と記したところをラテン教父は「ペルソナ」で訳しました。この「ペルソナ」は仮面という意味で位格さらには人格ともいわれますが、神学者カール・バルトによれば「存在のあり方」です。現代人が考える主体性を持つ人格の意味ではないそうです。三位一体は「存在」は同じであり一つの実体ですが、その「在り方」に違いがあるのであって、父と子と聖霊それぞれの個別性・固有性というのは実体的な事柄ではなく機能的な事柄ではないかと思われます。
質問の要旨は、父,子,聖霊の三位格は「本質」は同じだが「存在・実体」は別々だというウッド師の三位一体理解は是か非かです。どうぞ、お答え下さい。
 

御サイトのカテキズムの関する件

 投稿者:deusprovidet  投稿日:2012年 7月29日(日)16時16分4秒
返信・引用
  阿部牧師先生並びに主にある兄弟姉妹の皆様、はじめまして。御サイトの「三位一体のカテキズム」(以下「カテキズム」と表記)を拝見した上で、ウィリアム・ウッド氏の著書『[エホバの証人]の反三位一体論に答える』〔いのちのことば社〕(以下「前掲書」と表記)に示されたウッド氏の三位一体理解、特に御子キリストと御父なる神との関係について疑問を感じたのでお教えを乞う次第です。なお、私自身はクリスチャンであり、「エホバの証人」とは関係ありません。
ウッド氏の前掲書は「カテキズム」の問6で参考文献に挙げられているので、阿部先生の三位一体の教理についての御見解と同じ立場であると推察致します。その前掲書の39頁と127頁でウッド氏は、父なる神と子なる神と聖霊なる神との関係は「同一」ではなく「同質」であると主張しておられます。特に127頁では「三位一体を信じる者は、キリストが父なる神と同一の存在であるとは主張していません。父が本質において神であるのと全く同じ意味で、キリストも本質において神である、と言っているのです。」と述べ、「三位一体を信じる者」すなわち正統的キリスト教における三位一体についての理解と「エホバの証人」のそれとの違いを指摘しておられるわけです。確かに父と子と聖霊の三位格が「同一本質」であるという点では正しいし、これは「カテキズム」でも教えておられるとおりです。問題は、「同一の存在」ではないと述べている点です。これは言い換えれば、「同一実体」ではないということです。つまり父と子と聖霊の三位格は、「本質」は同じだが「実体」は同じではない・・・とウッド氏は主張しておられるわけです。これは由々しき問題ではないでしょうか?「カテキズム」では問8で「神の本質」とは「神の実体」のことであると言われています。ニカイア(・コンスタンティノポリス)信条の「ホモウーシオス」は日本語では「同(一本)質」と訳されると同時に「同(一)実体」とも訳されます。「本質」が同じであることは「実体」が同じであることを意味してきたからです。ギリシャ語の「ウーシア」は「本質」という意味だけではなく「ヒュポスタシス」と同義語で「実体」という意味もあり、ラテン語訳ではアリストテレス哲学が「スブスタンチア」(実体)と「エッセンチア」(本質)とを区別していなかったことが歴史的背景としてあり、「ホモウーシオス」を「本質」が同じであるという意味だけでなく「実体」が同じであると理解することは神学的に誤りとは言えないと思います。三位一体の三位格の関係は「同一本質」=「同一実体」という理解でよいですよね。そうなると、ウッド氏の「三位一体を信じる者は、キリストが父なる神と同一の存在であるとは主張していません。」との発言は、ウッド氏自身の個人的解釈なり見解ととれば問題ないですが、そうとれないのは主語が「三位一体を信じる者」となっていて、ウッド氏がいかにも正統的キリスト教の立場を代表するかのように発言しておられるからです。はたしてこのウッド氏の三位一体についての説明は、正統的キリスト教の立場に合致するものでしょうか?それとも誤解を招く不適切な発言でしょうか?
以上、御賢察のほどよろしくお願い申し上げます。
 

【7000本の松】

 投稿者:ベテスダ・柏メール  投稿日:2011年 3月26日(土)17時35分19秒
返信・引用
  【7000本の松】

海風を受けて
其処には7000本の松が
聳え立って(そびえたって)
いたと言う

松は、昔々 大昔から
其処で津波の多い港に
仁王立ち(におうだち)で
村民を守り続けていたと言う

松が見下ろす
村民は、何時もそんな松を
見上げては
笑いあい 喜び合い 励ましあって
幾度も 幾度も来る
津波の危機を乗越えて
手に手を取って 声を掛け合い
何世代も 何世代も
頑張って来たのだと言う

浜辺で海にそそりでて
潮風に打たれ
仁王立ちして
幹(みき)も 枝(えだ)も 葉も
精一杯に
大きな波を打ち消す
7000本の松

村民には、海辺で頑強(がんきょう)に
聳え立つ
そんな松が自慢だった

ある日
だれも見たことの無い
大きな 大きな 津波が、
その村を襲った
大きくて 大きくて その津波は
アッという間に 村を飲み込んだ
大きくて 大きくて その津波は
村民を飲み込んだ

松の下では 今まで其処で
寛いで(くつろいで)いた
老人たちが逃げ惑う
村では 村民が 慌てふためき
高台へと逃げ登る
必死に 必死に 逃げ惑う

松は、頑張って 踏ん張って
幹も 枝も 葉も
精一杯に
村民を守ろうと歯を食いしばり
頑張った
一人でも多く
二人でも 三人でもおおくの人を
守ろうと 食いしばる

でも でも
でも でも

巨大津波は大きく 空をも飲み込むように
村を飲み込み 村民を飲み込む
そして 沖へと運んで行ったと言う

頑張りつくした
7000本の松は
一人でも多く
二人でも 三人でもおおくの人を
守ろうと 食いしばるあまり
6999本が
村民と共に流されて行った。

其処には一本の 松だけ しか
残らなかった

一本の松は 淋しく 悲しく
枝垂れて(しなだれて) 呆然と
其処に立ち尽くしていたと言う

7000本の松のように
神は、私たちを守って下さる

必死に 必死に
二人でも 三人でもおおくの人を
守ろうと 食いしばり
守って下さる

身代わりをも差し出して
守って下さる

ヤハウェ  ヤハウェ

全知全能で
アルファでオメガ(始まりで終わり)の
神様

私たちは、その神様に守られる

私たちは、その神様に守られる

ハレルヤ エーメン

近年は。花粉症で嫌われている松だけど
昔からズ~~ト ズ~~ト
津波や高波から海辺の村を、村民を守って
来たのだね
山の土砂災害や崩落から村を、村民を守って
来たのだね

普段は、見えない神様の恵みのように・・・
(ベテスダ・柏)
http://plaza.rakuten.co.jp/bethesda
bethesda@joy.ocn.ne.jp
 

Re: 信仰書をお譲りします

 投稿者:naoty  投稿日:2010年 2月22日(月)23時56分22秒
返信・引用
  > No.147[元記事へ]

来年、春に神学校に入学を控えている者です。学びのために信仰書をお譲りいただけないでしょうか?
 

しばらくご無沙汰しております

 投稿者:阿部です  投稿日:2010年 2月13日(土)22時37分29秒
返信・引用
  もう1年以上ご無沙汰です。もう少し、書き込みたいと思います。よろしくです。  

クリスマスも恵みの内に行うことができました

 投稿者:牧師の阿部です  投稿日:2008年12月27日(土)14時29分50秒
返信・引用
  皆様、今年のクリスマスも主の恵みのうちに行うことができました。来て下さった皆様、祈って下さった皆様、本当にありがとうございました。写真はクリスマスコンサートです。カリスデュオ&内藤真奈さんをお迎えして、素敵なコンサートを持つことができました。感謝!
 

映画「犬と私の10の約束」

 投稿者:きらら  投稿日:2008年 4月12日(土)21時17分31秒
返信・引用
  「犬の十戒」を元に作られた名作「犬と私の10の約束」
何もしゃべれないワンちゃんの気持ちが
こんなに豊だったなんて改めて考えさせられます。

こちらのブログでは、あなたの愛犬のとっておきの
思い出を募集しています。ぜひのぞいてみてね!!

http://pet-kenko.net/2008/04/10.html

 

チベットの平和を祈る

 投稿者:チン  投稿日:2008年 3月24日(月)11時08分24秒
返信・引用
  チベット動乱で五輪はなしになるでしょう。中国バブルは春四月ま
でに崩壊するでしよう。中国発世界大恐慌が起こるかもしれません。
たぶんそうなるでしょう。そうなれば 中国全土で暴動や略奪が起こ
るでしょう。中国は無神論国家のためモラルがありません。このた
め収集のつかない事態に陥る危険があります。今年は世界にとって
極めて艱難な年となるでしょう。

中国の民族浄化が一日も早く終わり、チベットの人たちに平和が来
ることをお祈りします。
 

祈り

 投稿者:prayer  投稿日:2008年 1月26日(土)14時47分37秒
返信・引用
  水曜夜の祈り会 -Wednesday night prayer meeting-

今、祈ってほしいことがありますか?水曜夜の祈り会チームは、救い主イエスキリストからあなたに解決が与えられるよう 共に祈りを捧げます。

http://blogs.dion.ne.jp/shofar/archives/6733068.html
 

ありがとう

 投稿者: あだち  投稿日:2008年 1月24日(木)12時00分9秒
返信・引用
        失礼いたします
       「ビジネス&バイブル研究」 のご案内です
          ご笑覧ください。
     http://www4.ocn.ne.jp/~kokoro/
 

Re: デネコも

 投稿者:あっしー  投稿日:2007年12月10日(月)19時24分5秒
返信・引用
  > No.156[元記事へ]

阿部先生

 でねこちゃんの貴重な写真ありがとうございます。
 やっぱりコタツにはネコですよねえ。
 でねこちゃんとってもスリム。かわいいけど品も感じます。うちの子ときたら・・・。
 

レンタル掲示板
/8